終戦記念日、遺族の高齢化で世代交代!体験談を後世へ




終戦記念日、語り部が高齢化で世代交代!

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2017年8月15日は72回目の終戦記念日となります。

そう考えると、戦争が終わってからまだ72年しか立っていないということです。

毎年の行事のようになってきていますが、東京の日本武道館で政府主催の「全国戦没者追悼式」が執り行われました。

「日航機123便の墜落事故」などもそうですが、これらの大きな事件事故と言うのは、後世へ同じ過ちを繰り返さないために引き継いでいかなければならないと私は思います。

しかし、体験者などの多くは高齢化やすでにこの世を去った方々が多く、体験談を語れる方々が年々減少しているのも事実だと私は思います。




日本武道館の「全国戦没者追悼式」は何をやっている?

毎年、政府主催で行事を行っているが、実際は何を行っているのか私はわかりませんでした。

報道などでは切り抜いた部分を放送するため、全体で何をやっているのか気になっていました。

今回の行事には、全国から戦没者の遺族が約5200人と天皇陛下、皇后両陛下、安倍晋三総理大臣など約6700人が参列するということでした。

「戦没者」とは主に「日中戦争」と「第二次世界大戦」で犠牲となった方々の約310万人へ平和の誓いを新たにするものです。




注目の安倍首相の式典での言葉!これが世界に与える影響とは…今年も靖国参拝は見送り

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安倍首相は2013年から昨年までの計4回の式辞で、これまでの歴代首相が述べた「アジア諸国の加害責任や謝罪に触れずに”不戦の誓い”の文言」も控えていました。

毎年、追悼式での首相の言動には各国が注目しています。

今年は憲法9条の改正をどのように表現するかにも注目しなければなりません。

簡単に言うと9条の改正で日本が戦争をしやすくなったと私は認識しています。

厚生労働省の調査によると、今回の参列者の遺族のうち戦没者お奥さんは昨年より1人すくない6人、戦後生まれの人は1339人と過去最多となる予定です。また、戦没者追悼式は日本武道館だけではなく全国各地で行われています。

それらを合わせると合計で約3万5000人が参列するそうです。

日本は世界で唯一「核爆弾」を投下されている国ですので、世界にもっとこの行事をアピールしなければなりません。

そして、どれだけ戦争が哀れな行為なのかを世界にそして後世に伝えていく義務があると私は思います。




高齢化が進む戦争を語る人…戦争の記憶をとぎらせないために戦後世代の「語り部」育成へ

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戦争が終結して72年が立ちますが、戦争を体験した方々が高齢化しており戦争について語れる人々が少なくなっています。

そこで近年では、戦後生まれの世代が戦争を体験した人から話を聞き、後世へ伝えていく「語り部」を育成する事業が始まっています。

イラクなどでは未だにイスラム国との戦闘が続いていますが、戦争の被害者はいつも戦争とは関係のない一般市民です。

その為、早急に戦争をなくさなければなりません。

その為にも、日本は核爆弾が落とされた国として世界に積極的に話しかけなければならないのではないでしょうか!

事業には国も積極的に関与しており、現在では戦没者の遺族や空襲被害者、引き揚げ者らの苦労を伝える昭和館、戦傷病者についての資料を展示しているしょうけい館など3施設が厚生労働省から委託されています。

現在、約30名ほどが研修を受けており、研修者は実際に体験者からお話しを聞き、自分で話をまとめて朗読技術を学んでいます。

話を聞き伝えるというのはなかなか難しいことで、中には「体験もしていないのに良く話せる」と言われる方々がいますが、私は戦争を体験しないために体験者の話を変わって話す「語り部」と言う存在は必要だと思います。

研修のアドバイザーを務めている国文学研究資料館の加藤聖文准教授はこのように話しています。

「戦争で起きた悲劇は社会が共有すべき問題。今までは体験者に話を聞けば済んだが、これからは聞いた人が次に伝えていかなければ」

このように話しています。

また、私は現在戦争の真っただ中にある国の一般国民からも戦争の愚かさを世界に広げていく活動を日本が率先してやらなくてはならないと思います。

例えば、イラクなどで逃れてきた人々を日本に招いて戦争について話してもらう。

それらをよくよくは世界に発信していく。

そうすることで少しでも戦争がなくなれば良いと私は思います。




日本の終戦記念日!他の国ではある?なぜ靖国神社へ参拝するのか!

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日本では8月15日を戦争の終わった日としていますが、世界ではどのように扱われているのでしょうか?

日本は1945年に昭和天皇によって降伏を宣言した日が現在の終戦記念日となっています。

1945年9月2日はポツダム宣言に調印した日で昭和27年まで9月2日を敗戦記念日と呼んでいました。

敗戦とは響きが良くないですよね。

その為、海外の終戦日はアメリカ、イギリス、ロシアなどは9月2日に設定しています。

中国は9月3日で北朝鮮と韓国は日本と同じで8月15日を終戦日としています。

なぜ世界でこれだけ日にちが違うのでしょうか。

「第二次世界大戦」、世界とついているのだから同じ日にすればよいのではないでしょうか。




アメリカなどが終戦日としているポツダム宣言とはなに?

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簡単に言うと、アメリカやイギリス、中国のトップによる日本に対する無条件降伏を含んだ宣言のことです。

これにより、日本が降伏することで第二次世界大戦が終結しました。

逆に言うと、この宣言がアメリカなどから出されなかったら日本は滅んでいたかもしれません。




日本に原爆が落とされたのはいつ?広島と長崎には同時に落とされた?知っているようで知らない真実

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日本が唯一原子爆弾を投下されたことは知らない人はいません。

しかし、肝心のいつ落とされたかを答えられる人は少ないのではないでしょうか。

なぜ、原子爆弾が忌み嫌われているかと言うと、普通の爆弾とは根本的に違うところです。

東日本大震災で福島原発が爆発放射能が漏れている件で原子力がいかに危険か分かったと思います。

原発は落ちてからも被害が広がるところが問題です。

一種の化学兵器のようなものですね。

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今後一生使用してはいけない代物です。

世界で初めて原子爆弾が投下されたのは広島で1945年8月6日です。

それから3日後の8月9日に長崎に2発目の原子爆弾が投下されています。

私の考えでは、広島で威力を確認して長崎で最終確認したのではないでしょうか。

私は原発を投下されたことではなく、日本が原爆を投下されるまでアメリカを追い込んだことに驚きました。

世界地図では小さな米粒並みの国でしかなかった日本が大国のアメリカに脅威を与えていたということです。

平和記念式典が毎年行われていますが、実は広島と長崎では別々の日に執り行われています。

私も毎年式典は見ていましたが、それぞれ別の日で行われていたことは初めて知りました。

原爆投下の説は色々と出回っていますが、私は実験台にされたと思っています。

72年も前の核兵器技術の爆弾で広島市の人口35万人の内、4か月間で15万人ほどなくなったそうです。

72年前の技術で広島の半分の人間が死んでしまう技術は本当に恐ろしいです。

ちなみに、現代の技術では、1発で軽く日本が無くなるほどの威力があると噂されています。




靖国参拝はなぜ終戦記念日におこなわれる?日本が誕生した建国記念日のほうがよい?

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このような意見がありましたので確認してみます。

私もどちらかというと建国記念日に戦没者をたたえたほうが良いのではないかと思っています。

他にも多くの意見がありました。

敗戦と言うよりは、終戦と言うけじめ

「戦いが終わり、慰霊らが待ち望んだ平和な日々を迎えました、、という彼らが知ることの無かった最も待ち望んでいたケジメを報告する。ことからではないでしょうか」

終戦は自らの行動だから意味がある

「敗戦は相手の行動によって決まるもの。終戦は自らの意思によって決まるものだと思います。だから自らの意思で終戦とした日に参拝するには意味があると思う。」

スタンドプレー、デモンストレーション、プロパガンダとしての行為だから

「政治家の参拝なんてそんなもんですよ。動機がそもそも不純なんです。   戦争というのは、毎日のように人が死んでいく生命の大量消費。毎日が命日。」

ネット上では色々な意見がありますね。

政治家のパフォーマンスだとか色々と言われています。

意見を見ているとすべてあっていそうです。




沖縄にも終戦日が…広島や長崎とは違う日に設定されていた!

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あまり知られていませんが、8月15日は終戦記念日ですが沖縄では違う日が終戦日とされています。

沖縄の終戦日は6月23日の「沖縄慰霊の日」とされています。

司令官の牛島満などが逝去して組織的な戦闘が終わったことからこの日が終戦日とされていますが、一説には逝去したのは6月22日と言う説と6月23日と言う説の2通りあります。

当初、「沖縄慰霊の日」も6月22日に制定されていましたが、1965年に6月23日に変更になりました。

一部には9月7日が本当の終戦記念日だと言っている方々もいます。

なぜかと言うと、司令部が解体された後も沖縄では抵抗が続いていました。

ポツダム宣言を受諾して日本が事実上降伏したあとも抵抗しており、沖縄県嘉手納町で降伏文書への調印がされたのが9月7日と言うわけです。

ちなみに沖縄県では9月7日は「市民平和の日」とされています。




沖縄での終戦記念日も追悼するべき?

沖縄は唯一ゲリラ戦が繰り広げられた場所であり、それを題材にした映画も発表されています。

それだけ、激しい戦闘だったといえます。




伝説の日本兵が沖縄にいた!死んだと思われていた兵士が蘇生?不死身の日本兵 船坂弘氏の最強伝説

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私が終戦日について調べており、沖縄にたどりついたとき面白い話が出ていたので紹介したいと思います。

それは一人の日本兵のお話しです。

外国人に比べて小柄な日本人は海外から馬鹿にされていたと思います。

しかし、その日本人は海外の軍人から称賛また恐れられたほどです。

その人物が第二次世界大戦で不死身の分隊長と言われた「船坂弘」その人です。

この人には数々の伝説があります。

有名なのは渋谷センター街の入り口あたりにある大盛堂書店はこの船坂弘が築いたものだと皆さんは知っていますでしょうか。




子供時代は文武両道として知られていた?

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船坂氏は「不死身の分隊長」と言われ敵軍であったアメリカ兵からも絶賛とともに恐怖を与えました。

船坂氏は1920年に農家の3男として栃木県で生をうけました。

子供時代は文武両道であり、それらは軍人になってからも変わらなかったそうです。

・特別銃剣術微章

・特別射撃微章

・剣道6段教士

・居合道錬士

・銃剣道錬士

幅広い武術を習得していたことになりますね!

それだけ優れている人物だったということです。

日本軍はアメリカ軍の戦闘機B29などの爆撃で敗戦に近づいていました。

船坂氏は23歳の時にパラオ諸島のアンガウル島に宇都宮歩兵第59連隊軍曹として着任します。

23歳での連隊軍曹は異常な昇進速度です。

階級を見るだけでも船坂氏の才能がわかります。




日本の伝説!日本軍の十倍の米軍精鋭部隊に立ち向かった一人の不死身の分隊長!

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当時、米軍はアンガウル島を占領してそこに飛行場を建設する目的で攻撃してきました。

アンガウル島を守っていた日本兵は船坂氏を含めてわずか1400名ほどで、それに対して米軍は精鋭部隊約2万2000人で攻めてきました。

はっきり言って勝ち目はないですよね!

それと平気技術なども敵兵には及ばず、負け戦でした。

攻めてきた米軍の精鋭部隊はハワイで特別上陸訓練を受けた、私たちも一度は聞いたことのある「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」の第81歩兵師団、第38起動部隊、航空母艦11隻に戦艦2隻、巡洋艦10数隻、駆逐艦35隻の大部隊でした。

物量が違い過ぎて、海岸に砲列や鉄条網などを敷き敵軍を迎え撃ちますが太刀打ちできませんでした。

しかし、船坂氏はグレネードランチャーを筒が真っ赤になるまで打ち続けた結果、米軍の足止めに成功します。

グレネードとは、筒が固定された砲台でその中にロケットを入れることで固定した角度でロケットが発射される武器のことです。

これが赤くなるほど打つというのはよほど打ち込んだということです。

海岸沿いでの戦闘が終わると、残存している兵力を北西の洞窟に集結させてゲリラ戦の用意をします。

アンガウル島の地形が変わるほど激しい戦闘だったと言われており、船坂氏はそこで200人以上のアメリカ軍人を殺傷したと言われています。

1人で200名の精鋭軍人をですよ!

それだけでもすごいですが、船坂氏はまだまだ伝説を起こしています。




大けがを負っても戦闘をやめない船坂氏!不死身と言われる由縁

船坂氏は海岸線の3日後に米軍の猛攻を受け敵陣で左大腿部に砲撃を受け重症を負っています。普通だと死亡してもおかしくない傷です。

船坂氏の傷を見た軍医は「手の施しようがない」と船坂氏に自決用の手榴弾を渡してその場を立ち去ります。

当時は手の施しようのない兵には手榴弾を渡して一人でも多くの敵兵と一緒に自決するように言われていたそうです。

一種の洗脳ですね!




傷がすぐ治った船坂氏はまさに不死身!回復力の高さ

軍医も見放した重症を負った船坂氏ですが、負傷した足を包帯代わりに日章旗で縛り、味方陣地の洞窟にたどり着きます。

普通は負傷兵として扱われるところですが、船坂氏は翌日には足を引きずりながらですが、歩けるまでに回復します。

船坂氏は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と自身で話していますが、もう一度お話しします。

普通の拳銃で足を撃たれたのなら翌日には引きずって歩けるかもしれません。

しかし、船坂氏は砲弾を足に受けてます。大きさも威力もけた違いです。

当たり所が悪ければ足がなくなっていたと思います。

それを「小さなときから傷が治りやすかった」で果たして片づけられるのでしょうか。

自著『英霊の絶叫 ― 玉砕島アンガウル戦記』(光人社NF文庫)によれば、「絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を 1度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。 実際、その姿を見た部隊員たちから、『不死身の分隊長』『鬼の分隊長』と形容する声が聞かれるほどであった」と回顧している。

自身が出版している本では船坂氏の不死身具合が乗っています。

足と両腕を負傷してなお敵を倒している姿は敵軍からはどう見えたのでしょうか。

私は死神にでもあったような感じだったと思います。




連日の戦闘で傷口からは大量の蛆(うじ)、自身で銃弾を埋め込み点火して傷口を焼く!

補給や食料が少なかった日本軍では満足に治療も施せず、船坂氏は傷が化膿して、蛆(うじ)が湧いていたそうです。

伝説の一つとして船坂氏は化膿した傷をこれ以上広げないために銃弾を傷口に埋めて自ら点火させ炎症を防いだと言われています。

当時の予想通り圧倒的な戦力差で日本軍は追い込まれてきます。

船坂氏も敵の銃弾を腹部にもらっており、さすがにこのように思ったそうです。

「蛆に食われれ死ぬくらいなら、もはやこれまで」

このように思い自決を覚悟していたそうです。

この時、船坂氏は極度の栄養失調と流血で両目がほとんど見えなかったそうです。

自決を覚悟していたということで船坂氏は遺書を書いています。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。天命を待たず、敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。思い残すことはありません。 陸軍軍曹 舩坂弘」

遺書を書きいよいよと言うところで船坂氏は手榴弾のピンをはずしたそうですが、不発弾でした。

極限状態の船坂氏はその時、「なぜ死ねないのか、まだ死なせてもらえないのか!!」と絶望したのと同時にこのように思ったそうです。

「一矢報いてやる!」

そう思った船坂氏は米国の司令部に一人で乗り込むことを決意したと言います。

急遽に追い込まれているとこのような思考になってしまうんですね。




一万人の精鋭部隊の敵兵の中に乗り込む船坂氏!

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当初、米軍司令部には歩兵6固大隊に戦車1個大隊、砲兵6個中隊など約1万人が滞在していました。

船坂氏は指揮官が指揮所テントに同時に集まる機会を狙っていました。

死の寸前であった船坂氏ですが、手榴弾6個と拳銃を1丁を見につけて、3日間寝ず這い続け、4日目に米軍指揮所テントまで20メートルのところまで潜入しています。

もはや人間じゃなかったのかもしれません。

栄養失調で目も見えない状態で3日間寝ずに過ごすことが正常な人間にできるでしょうか。

ちなみに、ここまでに船坂氏が受けた傷は大小合わせて24か所で重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2カ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5カ所、右肩捻挫、右足首脱臼のけがを負っています。

どうして生きているのか私にはわかりません。

と言うか、動けること自体奇跡としか言いようがありません。

また、普通に歩いて潜入しているわけではありません。

常に匍匐(ほふく)全身で進んでいたため、足や肘などの服はなくなり、戦闘による火傷と全身に20か所砲弾の破片が食い込んでいたそうです。

各司令官が集まってきたのを見計らい船坂氏は、右手に手榴弾左手に拳銃を持ち茂みから立ち上がったそうです。当時の米兵は船坂氏を見て、幽霊かゾンビのようないでたちで目を疑ったそうです。

服はビリビリに破けて体中負傷しており、栄養失調だったためゲッソリとしていたのではないでしょうか。

だれが見ても異常な光景だったと思います。

私がその場にいたら発狂しているかもしれません。




伝説は終わらない!米兵に戦死と判断されるも3日後に蘇生!生き返る

船坂氏は一矢報いる前に、米兵に頭部を撃たれて昏睡状態になり戦死と判断されて、死体安置所に運ばれたそうです。

アメリカの軍医は船坂氏が握りしめていた手榴弾を解きほぐしながら米兵にこのように言ったそうです。

「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

安置所に運ばれた船坂氏は何と3日程立ったころ息を吹き返して蘇生しました。

それをみた監視の米兵は恐怖で凍りついたそうです。

死んだ人間が起き上がったらそれは恐怖でしかないですよね。

お葬式をやっている時にいきなり棺から死んだ人が起き上がってくるのと一緒です。

蘇生した船坂氏は米軍の治療を受けて歩けるほど回復します。

今後は重傷者の病棟の警備が甘いことから脱走して1キロ離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進、爆発して翌朝には点呼に何食わぬ顔で参加していたそうです。

この話を私は聞いて、船坂氏の日本への忠誠心は尋常ではなかったのだと思いました。

そして、それらを相手にしていた米国が恐怖するのもうなずけました。




終戦後、日本に帰国した船坂氏を見て家族が驚く!戦死公報

昭和45年12月に船坂氏は戦死公報が届けられていたため、実家の家族は戦死したと思っていたそうです。

船坂氏は実家の先祖に生還の報告をしていると、新しい位牌がありそこには「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたそうです。

そうですよね…

船坂氏は死んだと思われていたので、位牌を作るのは当然のことです。




まとめ 現在も残る船坂氏の足跡…渋谷大盛堂書店!

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話がだいぶそれてしまいましたが、私が言いたかったことはそれだけ戦争とは醜いことだということです。

船坂氏の身体を酷使させたのも戦争です。

戦争が起こっていなかったら、このような経験をしなくて済んだということです。

私たちは戦争と言うものをまったくしらない時代に生きています。

その為、戦争を甘く見ている部分があるのではないでしょうか。

だから、終戦記念日などの行事が必要なのです!

醜い戦争をしてはいけないことを私たちは先人たちの経験から知っているのです。

ちなみに、渋谷にある「大盛堂書店」と言う本屋さんは、戦争での強烈な体験から、この眼で見てきたアメリカの進歩した考えなどを学ぶことが、今後の日本の文化や産業、教育を豊かにすることだと思い、書店を経営することを決意したと言います。

また、船坂氏は本を何点か出版していますが、その売り上げなどは全て寄付されたと言います。

今度、渋谷に行かれた際はぜひ立ち寄ってみてください。




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